2018年度 第121回月例研究会
第121回月例研究会
日時:2019年1月19日(土) 14:00~17:00
場所:専修大学神田校舎2号館209号室
【会場案内】
専修大学神田校舎
〒101-8425 東京都千代田区神田神保町3-8
・専修大学は催し物に関する質問にはお答えできませんので、会場への電話問い合わせはご遠慮ください。
・会場は駐車場がありませんので、自動車での来場はご遠慮ください。
案内図:https://www.senshu-u.ac.jp/access.html
タイトル:生政治における〈法外的なもの〉
報告概要:
2016年7月26日未明、神奈川県相模原市にある知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者など46人が次々に刃物で刺され、多数の死傷者が出るという大変痛ましい事件が起こった。戦後最悪ともいわれるこの事件は、今日において様々な波紋を投げかけている。
その一つに犠牲者の氏名は公表されなかったことがある。通常、警察発表の段階で安否情報も含め、犠牲者の氏名は公表される。公表された氏名を実名にするか匿名にするかについては、遺族の意向を踏まえ報道機関が判断する。
だが、今回の事件では、警察発表それ自体が「匿名発表」である。すなわち、犠牲者たちは、主権者によって法権利を奪われた存在なのだ。法治国家から法権利を擁護されているように見え、法的政治的には、宙吊りにされているのである。法の外に追いやられ、法の効力の及ばない境界を設け、排除されたものをそこに合法的に置く。それが警察による「匿名発表」であった。すなわち、法権利のなかで法権利から置き去りにされているのである。本報告では、相模原事件を「生政治」の問題として捉える視座を導入して考察する。
「生政治」とは、元々は、ミッシェル・フーコーが『知への意志』(1976年)において定式化した概念である。フーコーによれば、古代ローマの家父長権は、奴隷と並んで子供に対しても家父長たる父親=主人の「生殺与奪権」を含んでいた。「生殺与奪権」が、権力としてではなく権利として現れたのは、君主の特権を正当化するためであったのだ。近代になって「生殺与奪」の権利を独占した「殺す権力」に「生かす権力」が加わった。「生権力」と命名された「生かす権力」の一つが「身体の解剖政治学」であり、もう一つが「人口の生政治学」である。
すなわち、「生政治」とは、生命を経営・管理し、生命に対して管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力である。「生きるに値する生」と「生きるに値しない生」の選別こそが、「生権力」の核心の問題なのだ。
ジョルジョ・アガンベンは、フーコーの権力論を深化させ、「排除的包摂」という「主権の締め出し」の構造によって産出された〈法外的なもの〉をローマの古法に出現する呼称になぞらえて「ホモ・サケル」(聖なる人間)と名づけた。ホモ・サケルとは、世俗の法秩序の外にあるために、法律上、殺人罪に問われることなく殺害することができ、しかも、聖なる存在として神と同類であると見做されるために祭儀上の手続きを踏んで神に犠牲として供することもできなかった。すなわち、「殺害可能で犠牲化不可能な生」だというのである。
今後、裁判員裁判が予想されるが、「法外性」・「匿名性」という、いわば「例外状態」において法権利を停止し、法律が宙吊りになった状態のもとで、異例の「匿名裁判」が行われようとしている。匿名化された生は、政治的な重要性を失い、「たんなる生」に反転してしまう。匿名化された生はこれを抹消しても罰せられることもない。重要なことは、主権者がホモ・サケルを産出しているということだ。津久井やまゆり園の犠牲者たちは、まさに「殺害可能で犠牲化不可能な生」にされてしまっているのである。今回の事件は結果的には、こうした法的政治的なあり方の盲点を突いたものとなったといえる。
【参考】「障害者を法外に置くな」(共同通信配信):https://www.47news.jp/2706248.html
報告者:西角純志(専修大学)
会場費:なし
理事の方は理事会のために13:10に会場に集合してください。
(参加者は事前に昼食を済ませておいてください。)