千田好夫サロン


問答無用の精神に反対する

 去る9月14日、詫間守氏が死刑を執行された。「え? 」と思われた方が大勢いただろう。わたしも「なんて早いんだ!」と思ってから、背筋がぞっとした。なんとも急いで殺したものだ。01年6月8日の事件から3年3ヶ月、03年8月28日の判決からだと1年ちょっとしかたっていない。彼自身が「早く死刑を執行してくれ」と言ってたらしいが、法務大臣や刑務所が受刑者の要望を聞くなんて習慣の全くないこの国で、これだけが聞き入れたなんてありえない。大きな、暗い力を感じる。
 わたしは詫間氏のしたことを擁護しようとも思わないし、子どもを標的にしたことに怒りを覚えたものでもある。また、社会に恨みをはらすのなら絶対に別のやり方があるはずだ、とも思う。しかし、そのことと彼がさっさと殺されたことに対する疑問は別の問題だ。
 死刑を下した法務省は、「心神喪失者医療観察法」を03年6月3日に成立させている。これは、事件をおかした精神障害者だけに対しあいまいな「再犯のおそれ」を理由に裁判官と精神科医の合議による審判で入院や通院を命令でき、しかもそれには上限が無いという非常に差別的な法律なのだ。実際には、一般人よりも精神障害者の再犯率ははるかに低いにもかかわらずである。保安処分の先取りと言えるこの法律をつくるときに詫間氏の起こした事件を最大限利用した。しかし、彼は精神障害者ではないので、用済みとなった後は、世論や彼自身のいうことを聞いた形にしてさっさと処刑したのだろう。
そして処刑を支持するネット上の意見のまた多いこと。例をあげておこう。
「刑事訴訟法は、判決確定から6カ月以内に執行を命令し、5日以内に執行すると定めています。しかし、数年から10年以上たって行われるのがほとんどで、宅間死刑囚のケースは極めて早いとのことですが、約1年も生き延びました。十分過ぎます。昨年、直ぐに刑を執行すべきでした。
これだけの極悪人です。単にあっさりと死刑に付すよりも、もっと苦しみながら死ぬ方法が適用されればよかったと思います。
「社団法人アムネスティ・インターナショナル日本」「社民党」「死刑廃止を推進する議員連盟(亀井静香会長)」が、この死刑執行に対して抗議しています。いったいどういう神経か疑います。他ならいざ知らず、宅間のような犯罪者を擁護する人達が存在することが不思議でなりません。「加害者の人権」は重視されても、「被害者の人権」はなえがしろなのでしょうか?果たして、「加害者の人権」はここまで拡大解釈されなければならないのでしょうか?」(山崎宏之氏のウェブログより)
 山崎氏はまだお行儀のいい方で、詫間氏と創価学会、部落解放同盟、在日朝鮮・韓国人の人々などをいっしょくたにし、差別偏見をあらわにした書き込みにはうんざりする。それもよくもあきもしないと次から次へと、様々な人物がいろいろな掲示板で同じような書き込みをしている。(このような死刑それもできるだけ苦しめて早期にしかも公開が望ましいといったネット上の書き込みに対して、殺された子どもたちが障害児だったとしたらどんな書き込みになるか想像してみよう。ちなみに、03年5月神戸地方裁判所は、「高機能自閉症」といわれていた息子を殺した父親に対し「執行猶予」判決を下した。減刑署名活動を呼びかけていたホームページには「ばんざい」「おめでとう」といった書き込みが続いたという。)
 その中で、詫間氏を「きちがい」(「基地外」とわざと書くのもいる)と決めつけ、「もしもそれで詫間が放免となり、障害者年金をもらってのうのうと生きていくなんてことになれば、わしは国にぶちきれるね」という書き込みがあった。詫間氏がもし障害者と認められるとすれば精神障害者ということになろうが、精神障害者には無拠出の障害年金は出ないことなど様々な年金受給上の制限があることを棚にあげて、なんという差別発言をするのだろう。
「のうのうと生きている」障害者の一人として、「詫間みたいなきちがいは、即日死刑が当然だ。それもできるだけ苦しめながら殺せ」というヒステリックな合唱には、うんざりするとともに恐怖を感じる。「謝罪もなく死刑にしたのは残念」というのにもあきれる。被害者がそういうのは理解できるが、それを隠れ蓑にして自分たちの差別意識に屈服しないことを残念がっているとしか思えない。
 もう一度言うが、わたしは詫間氏の行為を弾劾する。しかるべき裁きを受けて当然と思う。だが「こういう奴はすぐ殺せ、中国みたいに即日公開処刑!」という合唱には断固反対する。それは、一度貼ったレッテルは何が何でも正しい、絶対にはがさないという差別思想なのだから。
 そういう意味で、私は死刑制度に反対である。(死刑が「極悪」犯罪の抑止力になるという意見にも反対だ。日本は有史以来死刑制度を維持しているが、それで「極悪」犯罪がなくなったのか? 千数百年も効果がないものは見直すべきではないのか? もっとも、ここではどういう刑罰なら妥当なのかという議論はしない。)死刑制度に含まれている差別思想は、障害者にむけられているだけでなく、あらゆるマイノリティに向けられている。それは、「すぐ殺せ!」と叫ぶあなたも例外ではない。たとえば怪我や病気で病院に入れば、あなたもりっぱなマイノリティである。借金を抱えても、交通事故を起こしても、子どもが学校でいい点をとれなくてもそうだ。そして、みんな等しく高齢者になる。
 それは一過性のことばかりだから多少不都合があっても仕方ないと思うのはあなたの勝手だが、それは自分は例外にしてくれというのと同じでご都合主義なのだ。高齢者になれば、みんながあなたに優しいかは保障の限りではないではないか。
「別の話をするな。詫間がゆるせないだけだ」というかもしれない。彼のしたことをゆるさなくて結構。誰もそんなことを言ってはいない。ただし、「別の話」ではない。人間は変われるものであること、死ぬまでは誰でも可能性に満ちていること、そしてそれには時間がかかること、不都合はあなたの言うとおり「一過性」でしかないことを万人が認めあうことが肝心なのだと思う。
 わたしは小児マヒの後遺症で、移動には車いすを主に使う。昔なら座敷牢か入所施設で一生を過ごしたかも知れない。小学校時代はそれだけでいじめられまくった。毎日意味もなく殴られ「びっこ」と蔑まれた。決して悪い学校ではなかったが、その事実を知っても先生たちはどうすることもできなかった。当時のわたしもそう思っていた。しかし、本当にどうしようもなかったのかと後になって考えると、そんなことはないと思えるようになった。「どうしてあいつは歩けないの」と子どもがきいてきたら「千田は今は歩けないが、歩けるようになるかもしれない。歩けなくとも車を運転できるかもしれない。君と一緒に大学にも行けるかもしれない。実際にそうしている人が世界中に何人もいる」と、障害を未来に開かれたものとしてわたしにも他の子どもにも語るべきだったのではないか。(それには、教師にはだいぶ勉強してもらわねばならない。)それでいじめがすぐに解消するのでもないだろうが、「今」だけに固定された関係ではなく、未来に目を向けた関係がお互いにつくれたのではないだろうか。つまり、彼らがわたしを「びっこ」、わたしがかれらを「いじめっこ」として終生忘れがたい刻印を押さずとも済んだのではないだろうか。
 こういう話があった。100年ばかり前のこと、アメリカに住む8歳のバージニアの関心はプレゼントをくれるサンタにあった。でも、友達はサンタなんていないという。少女は新聞社に「サンタっているの?」と手紙を書いた。手紙をもらった編集者が返事を書いた。その返事が社説になり、人々の心をうった。
「この世の中に、愛や、人への思いやりや、まごころがあるのとおなじように、サンタクロースもたしかにいるのです」
社説は、物質主義におちいっている世相を批判しているように見える。
「サンタクロースがいなければ、わたしたち人間のあじわうよろこびは、ただ目にみえるもの、手でさわれるものになってしまうでしょ。」
 バージニアは、この返事をどう受けとっただろうか。例年の保育園のクリスマスでは、クライマックスにサンタが登場し、「よい子」にプレゼントをあげ、次の一年「よい子」であれば来年も来ることを約束して帰る。大人の虚構であることを感じつつ、サンタの実在を信じる子どもたち。物質主義を批判するのに、結局プレゼントという物質を使うのはなぜかと、この返事を批判するのは的外れだろう。
 いつかはサンタもえんま様もいないことがわかる。愛や罪も虚構やプレゼントを通さなくてもわかるようになる。たとえば、学校の校長室にいる人間が、普通の人間にすぎないこともわかるようになる。しかし、子どもが自らそれに気づくまでは、大人が率先してその虚構を崩してはいけない。批判的精神は人にこさえてもらうものではないだろう。もし、虚構を子どもが指摘したら、その時きちんと話せばよい。しかし、そのゆっくりした過程をゆるさないのが、物質主義の本当の「罪状」なのであり、「サンタクロースがいる、いない」というレッテルに固執する差別思想の罪なのである。
 レッテルにこだわれば問答は無用となる。ところが現在の日本では、問答無用という気風が何かしらかっこいいと受け取られているのではないだろうか。それは、実際に問答するかどうかよりも、ゆっくりと人と人との関係を築いていくことを拒否してしまう傾向のことだ。
たとえば、「三国人」や「(重度障害者が)生きている価値があるのか」などいくつも問題発言をしているにもかかわらず石原慎太郎都知事が大量得票する。右翼的骨っぽさが受けているのだろう。その石原知事は、戦争のできる「フツー」の国になりたい、そう思わないのは「愛国心がない」という気分を蔓延させている。知事の意をくんだ東京都教育委員会が先頭に立って、「強制するものではない」という閣僚の発言もなんのその、日の丸君が代を教育現場に強制し、従わない教員を大量処分している。政府・文部科学省にさきがけて新教育基本法、新々憲法の土台をつくり、国のために死ねる人間をまたぞろつくりだそうとしている。戦争するぞ、国のために死んでこいというのは、「問答無用」ということだ。ブッシュのやり方がまさしくそれだ。小泉首相はそのブッシュを風よけにして着々と「フツー」の国をめざしている。
 こういう空気の中では障害者が生きていくのはとても難しくなる。詫間氏処刑とそれを賛美し督促する風潮に対し、断固、そして気長に立ち向かわねばならない。どのくらい時間が残されているのかはわからないが。

月刊むすぶ405号所収(ロシナンテ社)